2016年4月21日

危機管理体制に関して~元陸将補 矢野義昭氏の論説交換をとおして~

ヒトと感染症の歴史は長く、紀元前エジプト時代にさかのぼる。その時代のミイラから、脊椎カリエスに特徴的な背骨の屈曲を示すものが複数発見された。脊椎カリエスは、結核菌によっておこる骨病変であり、その当時すでに結核が人々の間に流行していたことがわかる。結核は最も人類と付き合いが長ため、病因解明、治療法の確立(化学療法、ワクチン)、予防といった、現代医学の基礎となった疾患である。結核の他、天然痘ウイルスも長い間人類を苦しめた感染症であるが、有効なワクチンの開発により、地球上から根絶された。このように、衛生状態などの改善に加え、ワクチン、薬剤の開発などにより、感染症は少なくなり、先進諸国にとって、すでに「過去の病気」と言われるようになった。
ところが、既に制圧された感染症は、新たな脅威となって私たちの前に立ちはだかるようになった。それは、HIV/AIDS、MERS, SERSといった新しい感染症の出来とともに、かつて制圧された病原体が、新たな脅威として、私たちの前に立ちはだかってきたからである。その脅威とは生物テロである。
生物テロに関する研究は世界中でなされてきた。その研究者を驚かせたのは、我が国のカルト集団、オウム真理教が行った、炭そ菌、ボツリヌス菌によるバイオテロである。オウム真理教は、「地下鉄サリン事件」を引き起こした集団として有名であるが、彼らたちが行ったこのテロは成功しなかったが、この事件に世界は驚愕した。オウム真理教は生物テロの専門家集団をもたなかった。そのような“素人”組織が、通常の集合住宅のキッチンで、生物兵器を量産していたという事実が、世界中を震撼させたのである。生物兵器は「貧者の兵器」と呼ばれるが、それを実証したのが、世界初のオウム真理教によるバイオテロである。これがきっかけとなり、世界はバイオテロを現実のものとして動き出した。WHO(世界保健機関)や欧米各国の政府機関は、バイオテロ専門部署を作った。また、WHOが”Health Security”という言葉を使いだしたのも、オウム事件がきっかけであった。この言葉が意味するものは、「健康問題はもはや、安全ではない」という事である。
こうした世界の動きに比して、当の我が国はどうだったのだろうか。オウム事件の後、H1N1豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)、エボラ感染症、MERSなど、世界的に重要な感染症が発生したが、その対応を見る限り、大きく遅れている、と言わざるを得ない。象徴的な例が「水際作戦」である。水際作戦は軍事用語であり、その有効性は軍事的にも大きく疑問視されている。
感染症対策において水際作戦が使用されたのは、14~15世紀、世界中で猛威を振るった、ペスト流行である。当時、イタリア等の海岸線で、汚染地からの船を国内に入れないために、40日間留め置いた。検疫(Quarantine)の由来はここから来ている。結果として、ペストから逃れた国はなかったのである。また、当時の輸送機関は船が主体であったが、現在は飛行機である。48時間以内世界中のどこでも行かれ、多くのトランジットが行われている現代で、「水際」という言葉自体、時代遅れ甚だしい。H1N1豚インフルエンザ流行の際、「感染者を一人も入れるな!」のスローガンのもと、防護服に身を包んだ検疫官が空港を駆け回った姿は、我が国では英雄視されたかもしれないが、世界の失笑をかっていた。WHOは「検疫の有効性は確立されていない。海外からの渡航制限をしないよう」、こうした水際作戦を繰り広げた我が国を名指し同然で注意喚起を行ったのも、記憶に新しいところである。
なぜ、“先進国”と称される我が国が、このように世界とかけ離れた感染症対策を行うのだろうか。それは、「有事と平時の区別がついていない」すなわち、「危機という概念がない」という事に尽きる。この事実を示す一例が、検疫法と感染症法の二本立ての法律である。
感染症に対する法律としては、検疫法と感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)がある。また、緊急事態と認識された場合は、新型インフルエンザ法(新型インフルエンザ等対策特別措置法)がある。これらの仕組みが、有事(緊急時)に即しているか、というと、そうではない。
まず、このような法体系に基づいた仕組は効率的ではない。検疫法は、国内に常在しない感染症が国内に入ることを防ぐための法律で、活動主体は厚生労働省の出先である検疫所である。検疫所は主要国際空港と、港という外国からの玄関口にある。ところが、一たび国内に入ると、検疫法は外れ、国内法と呼ばれる感染症法に法って、感染症対策が行われる。この時の活動主体は、地方自治体だ。2009年の新型インフルエンザ流行の際、防護服を着て空港内で活動していたのは検疫所職員で、2014年、デング熱患者発生の際、同様の防護服を着て、代々木公園などを消毒していたのは、東京都の職員だ。また、検疫所の職員は、国際線ターミナルの制限区域に立ち入ることはできるが、国内線旅客ターミナルには立ち入れない。
感染症法も国の法律であるから、厚労省の関与がないというわけではないが、感染症法に指定された感染症が発生した場合は、個人ないし医療機関が保健所に届けるというのが骨子で、その情報を地方自治体通じて国に報告するという流れである。それゆえ、厚労省は、新型インフルエンザ流行の際も、国で決定された事項を「通知」あるいは「事務連絡」という形で地方都道府県に依頼をすることになる。
1979年FEMAアメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁:Federal Emergency Management Agencyレオ・ボスナー氏が来日し、1年間の視察ののち、多くの提言をおこなっている。それ等をうけて、指揮命令系統の一体化がはかられた。すなわち緊急事態と国が認識した場合は、内閣官房などが主体となった初動体制が敷かれることとなった。内閣情報調査室から総理、官房長官、危機管理審議官、ならびに、内閣危機管理監(現在は警視総監)、内閣官房副長官補(官僚)、危機管理審議官に速報が入り、官邸対策室ができる。対策室は、緊急参集チームと協議して、関係省庁尾局長級が招集され、有事の種類、事態などに応じて、主幹府省庁が決定される。エボラ出血熱に関しては、現在、内閣官房新型インフルエンザ等対策室が、先導を取ることになっている。
一見、このように統一された指揮系統の元、問題なく組織が稼働すると思われるが、残念ながら、実際の稼働となるとそうではなくなってくる可能性が高い。検疫法と、感染症法の、2つの柱があるという事は、それらの法令に伴う棲み分けがあるという事である。具体的には、厚労省本省→結核・感染症課⇔検疫業務管理室→検疫所という厚労省ルートと、保健所→地方自治体→厚労省という地方自治体主体の枠組みである。
国と地方自治体の棲み分けは、例として国際線ターミナル内を区切りとし、地方自治体では県境などが区切りとなる。検疫所は、当該疾患の疑い例に対して「体温測定を一日2回して、体調を検疫所に伝えるよう、また、具合が悪くなったら感染症専門の医療機関を受診する、保健所に相談する」と伝えるが、対象者がそうしなければならない法的な義務はなく、それらの事を、強制する力も国にはない。
また、地方自治体は国からの通知や事務連絡を受け取るが、それを現実的にどう適応させるかは、地方自治体ごとに違ってくる。今回の疑い例が国と地方をまたがったように、地方自治体をまたがることも十分想定されるので、地方自治体ごとのすり合わせをしっかりとしておかないと、実際に事が起こった時スムースに物事が進まなくなる可能性が高いと言える。
繰り返すが、国家の危機と判断された場合は、内閣危機管理監がリーダーとなって初動体制が敷かれる。総合調整として、各省庁に分担を振が、感染症の場合は、厚生労働省である。そうなると、平時の場合と同様のルート、すなわち、国内に入れないような水際作戦に過度に注力し、国内に関しては地方自体に依存するところが大きいという、平時の体制とほぼ変わらないやり方で、対応が進んでゆくことになる。
クリントン政権時代、初代FEMA長官を務めたジェームズ・ウイット氏は、講演で、「日本して、多くの異なる省庁が異なる責任をもっているようである(中略)どこが総括的な計画をもっているのか、どうやって一緒に協力していくか、どうやって資源を調節するのか。中央のレベルから実際の地方のレベルまでどのように協力し、どうやって一定の資源から最大の効果を引き出すのか。資源は限定されており、いかにむだを省くかなど計画はあるのかがはっきりしない」としています。様々な通知などは発令されていても、天然痘やエボラ感染症を受け入れられる医療機関は全国45で、総ベッド数80であり、医療スタッフも不足している現状は、ウィット氏の指摘がそのまま当てはまることを示す例だといえる
検疫法ができたのは昭和初期で、船が輸送の中心であった時代であり、現代にはそぐわない法律である。また、検疫法には「隔離・停留」という言葉が何度も使わる。隔離という言葉は、日本語ではあまり正確に区別されていないが、isolation=患者を一般集団から離す、quarantine=患者だけでなく、感染の可能性がある場合も一般集団から離す、という明確な区別がされている。特に患者でない人を一般集団から離す場合は、健常人である可能性もある人の行動制限を行うことから、十分な注意が必要なのは言うまでもない。
隔離することの効果(医学科学的でなく社会的、政治的な側面も含めて)が、個人の自由を制限することによって生じる負のインパクト、例えば倫理的な側面など、を上回った時にだけ、その権力を行使すべき、と、D.A. Henderson氏は、述べている(Bioterrorism JAMA books)。感染症が今後大きな社会問題となってゆく中で、隔離・停留の法的議論がなされないことは、エボラウイルス流行の際、その感染の可能性が否定できない米国の看護師が、個人の自由の主張を行い、州政府と争った状況とはあまりにかけ離れていると言える。
我が国の危機管理体制を、感染症対策を例に論じたが、「有事と平時の区別がついていない」という状況は、国家の安全保障上きわめて大きな問題である。早急な対策(法改正を含め)が求められる。



    矢野義昭

我が国の危機管理体制一般について言えることだが、憲法に緊急事態条項がないことに端的に象徴されているように、我が国には「危機を想定し、それに備える」ための危機管理体制が本質的に欠落していると言える。もちろん、防災・減災など、自然災害多発地帯の日本では、自然災害に対する対策は進んでいる。しかし、危機一般に対する備えは他の先進国と比べて遅れていると言わざるを得ない。
その根本原因として挙げられるのが、木村先生もご指摘されているように、一つは、省庁の縦割りと国と自治体の仕切り、自治体間の地理的管轄地域の分離といった、組織間の分断が危機時にも維持され、統一的な組織的危機対応ができにくい仕組みになっていることがある。
例えば、自然災害への被災者対応でも、救助は消防、搬送は自衛隊、検死は警察、埋葬や家族への通知は自治体と、本来の権限区分に応じて現場での対応行動も分断されることになる。それでも災害の現場ではお互いに協力し、相互に融通できることがあれば、平時の権限区分を超えて活動しているのが実態である。厳密にいえば越権行為かもしれないが、人命に関わる活動を寸秒刻みで全力で展開しなければならない被災現場では、そのようなことは言っていられない。とにかく、利用できるものはなんでも利用して、当面の危機、特に人命救助に全力を挙げなければならない。
しかし今の法制にはそのような危機時の現場感覚に根差したリアリティが欠けている。あくまでも平時の行政的対応や手続きが基準になっており、危機時を想定した、平時とは別の緊急時の法体系が十分に整備されていない。例えば、外国ではごく当たり前のことだが、緊急時には自己完結的な能力を持っている軍などに権限を集中し、その指揮のもとに各危機対処組織が連携して一体となって危機に対応するという態勢をとるための根拠規定は、日本の憲法以下の法体系には欠落している。
このようなことを主張すると戦後の日本では、「軍国主義」という非難が繰り返されてきたため、緊急時を想定した有事法制の整備なども遅れてきた。また、現在の有事法制についても、他国に比べ、危機対応という点では極めて不十分なものでしかない。国家、公益の立場に立ち、私権を制限してでも危機に備えるという前提での法制整備がなされてこなかったためである。
それでも、災害対策基本法など防災関連では、阪神淡路大震災で惨害をこうむった経験なども踏まえ、一般国民を対象にした罰則を伴った協力義務規定が明記されている。しかし、例えば防衛警備については、国民一般の私権制限や罰則を伴う協力義務規定については、極めて抑制的な規定になっている。そのため、例えば民間の物資を利用し、あるいは特定の民間人に業務従事を義務付ける条文は、自衛隊法では謳われていても、それを裏付ける下位の法令は十分整備されているとは言えない。徴用や徴発といった概念は、現在の日本では禁句になり封印されたままである。
しかしそれでは、国民の総力を結集しなければ対応できない重大な危機が発生した場合に対応できないことは明らかである。その一例が、福島第一原発の事故であった。全電源喪失の事態に至った時、例えば自衛隊の大型ヘリで非常用発電機やバッテリーを空輸していれば、メルトダウンに至らなかったかもしれない。しかし計画もなく訓練もしていなければ、危機時の時間的に追い詰められ情報が錯綜する中では、そのような発想すら出てこない。そのために、回避できたはずの重大危機を招いてしまったことになる。
第一次大戦中のスペイン風邪並みのパンデミックが発生すれば、世界で4千万人以上の死亡患者が出るとも言われている。オウム真理教の地下鉄サリン事件では、世界で初めてテロで大量破壊兵器(核・生物・化学兵器、放射性物質などを用いた大量殺戮が可能な兵器)が使用された。特に生物・化学兵器は、核兵器のような高度の技術も多額の予算も特殊な投射手段も必要ではなく、極めて安価に、大した技術も必要がなく製造でき、日常的な方法で持ち込みも使用も可能である。それでいて、被害の規模は核兵器よりも重大かつ深刻である。
化学兵器は農薬製造の技術を転用すれば比較的容易に製造できる。原料物質も大量に備蓄され流通しており、入手も容易である。生物兵器も天然痘など世界的に撲滅されたはずのウイルスや細菌を密かに培養し、それを不特定多数者に何らかの方法で感染させることに成功すれば、航空機その他の交通手段が世界的に発達した現在では、数週間から数か月のうちに世界的に感染を拡大することもできるであろう。また、遺伝子操作などの技術を使い、新種の生物兵器を製造することも可能になっている。
北朝鮮は、核兵器だけではなく、世界最大規模の化学兵器や生物兵器の備蓄を持ち、ISなどのテロ組織が化学兵器を保有していることも知られている。さらに国際的に孤立している北朝鮮が国際テロ組織と協力関係を結び、生物・化学兵器を密売しとしているのではないかとの懸念も高まっている。サミットや東京オリンピックのような国際的イベントは、国際テロ組織にとり名をあげ存在感を誇示するための格好の場でもある。日本も万全の備えが必要である。
生物兵器テロを想定した場合、木村先生が指摘されているように、日本の水際での検疫と自治体を中心とした国内での対応という二本立て体制では、国を挙げた組織的統一的な対応が効果的に実施できないことは明らかである。さらに自治体間の連携も容易ではない。各省庁、自治体を束ねた、米国のFEMAのような国レベルの危機管理組織を設立する必要がある。
また、国レベルの危機管理組織を中心に、平常時から各省庁、自治体の実務担当者が一堂に会して緊密な情報交換を行い、それぞれの権限や能力、連絡調整先などを周知しておかねばならない。危機管理組織は統一的な危機対処計画を策定し、それに基づき関係危機管理組織の訓練を行い、その成果を評価し不備な点を改めさせる権限をもたねばならない。それらの活動に必要な独自の予算と人員も必要である。
このような国レベルの省庁横断的な相応の権限と資源を持った組織の創設がなされない限り、国全体としての効果的な危機対処態勢は取れない。しかし、現状では、省庁の既得権、縄張り争いが先に立ち、結局、面倒な権限争いの再燃を避けて、現状の組織の延長で危機時にも何とか対処するという結論になりがちである。その結果、現状の本質的な問題は未解決のまま先送りになる。これが、これまでの姿であった。
しかし、これほど世界的にさまざまの危機が深まり、グローバル化が進んで日本も世界に蔓延している危機にいつ巻き込まれるかわからない情勢のもとでは、日本も他の先進国が採っているような、国家レベルの省庁横断的な危機管理専従組織を、早急に創る必要がある。それが遅れれば、また出さなくていい犠牲を出し、国家的な重大危機を招き寄せることになるであろう。その被害を被るのは国民自らである。このことに思いを致せば、官庁や政治家任せにせず、国民自らが危機管理組織創設の声を上げなければならないことは明白である。それ以外に、現状を打開する道はないように思われる。